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色えんぴつ第九話
「傷」


それは小高い丘の上にポツリと立っていた。
木漏れ日がキラキラと輝き揺れた。

僕は手にしたスケッチブックを強く握りしめた。


「運命」という見えない糸によって手繰り寄せられた僕は、ここに、父が愛したこの桜の木の元に立っていた。


「これはお前に渡しておく」

父はそう言ってスケッチブックを手渡した。

「しばらく預かっておいてくれ」

父は優しく微笑み、それ以上は何も話さなかった。

静かにさざめく水面のように、父の目には僕の心の底が映し出されていたに違いない。
さっきまで小さく見えていた父の背が、昔の大きく威厳に満ちたそれに戻っていた。

僕は父をまともに見る事ができず、情けなさと申し訳なさで潰されそうな気持ちを必死に支えていた。



僕が大学を辞めたのは二年前。

いや、正解には逃げ出したと言うべきだろう。

それまで僕はただ絵を描く事が好きで、回りの評価など気になどしてはいなかった。

だが現実は重くのしかかってきた。

否が応でも作品は評価され、次第に回りを気にするようになった。
そしていつしか、自分は他人よりも劣る劣等生だという意識が生まれ、それと共に体の一部にさえ感じていた絵筆は重さを増し、ついに手に取ることができなくなった。


僕を信じ送り出してくれた父を、僕は裏切ったのだ。

それ以来、故郷に帰ることもできずにただ目的もなくさまよい続けてきた。


病室を出た後、フラフラとこの場所に来たのはやはり何かの力が働いたのかもしれない。

父が描ききることができなかった、あの桜の木。

その前に僕は一人立ち尽くしていた。

春の風が心地良く頬を撫でた。

草の香りに何故だか懐かしさを感じた。
少しだけ、ほんの少しだけだが心の重さが和らいだ。

僕は手にしたスケッチブックを開き、どの位振りだろうか?ペンを走らせた。

だがやはりその手は次第に重さを増し、心を体を鈍らせた。

完全にペンを止めたその時、目の前を蝶々がヒラヒラと舞った。

何ともなく目で追ったその先に、彼女は立っていた。

僕はこの時どんな顔をしていたのだろう?

ただその時分かったのは、不思議そうに僕を見つめる彼女の瞳に、懐かしい温かさを感じたと言うことだけだった。

小島啓寿 | 23:11 - -
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